顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第28回・人を見る目がないということ


これでも、今では一応人事関係の仕事をしているのであるが、日常生活においては「人を見る目がない」と言われることがある。とほほ。半分冗談と思うのだが(思いたい)、火のないところに煙はたたないと思い、ちょっと振り返ってみた(あんまり、「人を見る目がない」と言うと、ぼくが選んだ妻や友人に悪いのだが、まあ許せ)。

 ひとつ思いつくのは、元々持っているコミュニケーションの癖である。
社会人になって初めてした仕事は採用の仕事だった。最初に言われたのは「お前は人の話を聞いていない」ということだった。入社直後のぼくの面接のやり方は、ぼくが一方的に先入観から考えたことを「君って〜だよね?」と聞き、相手が「そうです」と答えると、「やはりそうか(ええやつや or あかんわ)」と判断するという感じだったそうである。こういう面接は最低で、人を見ているのではなく、自分の幻想を投影しているだけである。これでは、そりゃ人を見る目はできない。仕事上では意識して治すように努力しているので、だいぶ治ったと思うのだが(仕事上、特にクレームなし)、日常生活では全然治っていないのかもしれない。そういえば、妻にもよく話を聞いていないと怒られる。

 もうひとつ思いつくのは判断基準の問題である。
もともと自分はリベラルで、結構何でもかんでも「あり」だと思うほうである。誰を見ても、あんまり「これはダメだ」と思うことが少ない。それは、もともとこだわりが少ないせいもあるだろうし、ぼくの出た心理学系の学科がその学問の性質上(?)ダメ人間が多く(ぼくを含む)ダメ人間をよく見てきたせいもあるだろう。

先の面接の際にも、最初はこういうことがあった。面接をしていても、その人その人の味が見えてきてしまい、落とせなくなってしまうのである。もちろん会社としての採用基準は知っているつもりだったが、なかなか上位の選考者とすりあわなかった。多かったのはぼくが「こいつはいいやつだ!面白い!」と思って通したら、「何でああいう奴を通すんだ!よく見ろ!あいつは仕事には向いていない!」と怒られるというパターンであった。

ちなみに不思議なもので、そういったやり取りを何度も何度も続けていくと、自然に採用基準が頭の中に出来上がり、しまいには詳細に考えなくても、基準に合わない人と話すと不快になり、基準に合う人と話すと心地よさを感じるようになった。英語を話せるようになったら、英文法は意識下になるということと同じようなものだろうか。基準が自分の人格の中に内在化されてしまうのである。そうなった自分に気付いた時は少々怖かった。別にその会社の採用基準は人の価値を計る絶対の物差しでもあるまいに・・・。

その後訳あって一時期警察の少年課で非行少年の心理面接をしていたり、中学校で教室相談員をして不登校の少年たちを見ていたりしたため、その基準は再度緩やかになった気がする。しかし、このことはやはり「人を見る目がない」ことにつながっているのかもしれない。

 とまあ、とりあえず不服ながらも振り返ってみると、最初の「話を聞いていない」すなわち「思い込みにより、正しい情報を得ていない」ことから来る「人を見る目がない」というのは大いに反省すべきであると思う。特に仕事上では死活問題なので、常に気をつけるべきと改めて思う。

しかし、後の「基準が緩い」ことによる「人の見る目のなさ」については、それでもいいのではないかと思う。確かに、ある基準を自分の中に内在化することによって、人をすばやく間違えなく判断することができるだろう。気分が悪くなれば☓というレベルまで行けば、人をジャッジすることなんてなんでもない仕事になる。たまに人事のベテランの中には「人なんて5分話せばわかる」と豪語する方がいるが(本当にいる)、そういう人は基準が内在化しているのだと思われる。すごいとは思うが、「かなづちを持っている人は、何でも釘に見える」という格言もある。ある基準をそこまで内在化させてしまえば、きっと違う基準でものをみることはなかなかできまい。

一方、基準が緩く不明確な人は誰を見ても「よくわからない」と言うしかないのだろうが、それはその人をあらゆる次元で見ようとするからとも言える。面接のような白黒つけなくてはいけないシーンではまずいかもしれないが、それ以外では実はこちらのほうがまっとうな気もする。元来多様な人間をそう簡単にわかるものか。
そう考えると、「人を見る目がない」と言われるのもあながち悪いことでもないかなと、ちょっと自分に言い訳している。「そういうこと」ではないのかもしれないけれど・・・。





Previous Index Next