顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第23回・表現媒体としての体


別に倫理とかそういうことから考えたわけではないのだが、死んでも臓器提供するかどうか迷っている。(本当に真剣に考えたわけではないので、容易に変わり得るが・・・)なぜかというと、死んだときの自分の状態がどうなっているかわからないからである。

ぼくたちは死人を外側からしか見たことがない。外側からみる限りにおいては、なんとなく「彼」は何にも感じていないように見える。誤って熱いお茶とかを上にこぼしたとしても、おそらく眉一つ動かさないで平然としているだろう。こういう状況を見て、生きている人は「彼」が何にも感じていないと想定する。

でも、よく考えたら「感じていない」かどうかなんてわからないのではないか。感じるというのは極めて主観的・内面的な現象であって、外から見て感じているのかどうかなんてわからない。感じているのに感じていない振りもできるし、感じていないのに感じている振りもできる
(こうやって人は騙されていくのだ・・・それはまあよいか・・・)。

何が言いたいかというと、「死」が感じない状態ではなく、感じているのにそれを表せない状態だった場合、すごく嫌だなということである。お茶をこぼされて「あっつー」と思っていてもぴくりとも動けず、鼻に綿をつめられて死ぬほど苦しくても(死んでるか・・・)動けず、寝心地悪くて寝返りを打ちたくても打てず、面白いギャグを聞いて笑いたいのに笑えない。
そういう状態の時に、臓器移植のために心臓とか腸とかを持っていかれたらどうなるだろうか。心臓を取られるのはめちゃめちゃ痛かろう。心臓が止まるほどびっくりするときはすごく不快だが、その何千倍もの不快さであろう。腸をとられるのもふつうの腹痛の何万倍もの痛さであろう。しかも、もう死んでいるので、死ぬことが出来ず、その痛さがずーーーっと続く
(かもしれない。あくまで「かもしれない」)。

そう考えると躊躇してしまうのである。日本の八大地獄のうち「等活地獄」というのがあり、どんなケガをしても死なずに痛みを味わわなくてはいけないという地獄なのだが、それを思い出した。
(いやまてよ。心臓にも意識があったらどうしよう。逆に心臓が「ぐわああ、頭がない!いて−!手も足もないぞ!目もない!いてー!」と騒ぎだしたらどうしよう・・・。あ、でもこれは大丈夫や。この前親指のさかむけがむけてとれた時、別にさかむけは何にも言ってなかった・・・。)

 そんなくだらないことを友人に話していたら、でもどうせ火葬になるんだからいいじゃんと言われた。なるほどそうかもしれない。まあ、多少の時間心臓とられて痛くても、一日二日耐えればいいんだったら、社会貢献として臓器提供してもいいか。そんな気もする。 

でも、それはさておいても、火葬されるとき熱いんだろな。もし、感じているのに表現できないだけだったとしたら・・・。ああ、死にたくない。怖い。




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