顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第12回・記憶の置き場所


 一応、ぼくのエッセイ(なのかこれは・・・)のタイトルは「いまをいきる」だが、人間以外の動物はもともと「いま(現在)」しか生きていないようだ。鳥は三歩歩いたらモノを忘れるというし(鳥頭と言うらしい。もぐはかなり鳥頭だった。顔を口の中に入れられて恐怖を味わったその後、すぐなついてきたり)、魚なんて単に刺激に反射しているだけのように見える。犬ぐらいになるといまいまの感情や意識などはあるかもしれないが、過去を振り返っている犬なんているだろうか。(いるかもしれないけど)

 ところが人間だけは時間の「流れ」の中で生きている。人間だって過去や未来の出来事は見ることはできず、「いま、この」現在しか見ることができないというのは他の動物と同じであるはずなのだが、何故か時間は「流れるもの」と感じている。
 それは、謎だらけの存在である人間が、自分自身の根拠を確定させることで不安をぬぐい、心の安定を得たいと思うからではないか。記憶をする人間は、自分の記憶の中を探ってはいまの自分を作っている要素の原因を見つける。自分の因果を見つける。そして思う。あのことが今を産み出しているのに、その「あのこと」っていったい何処へ行ってしまったのだろうか。目の前にはない。
 ぼくたちの現在を作り出したもの、「あの人との出会い、あの夜の出来事、大切な電話、忘れがたい手紙、努力、成功の瞬間、運命の選択」などがもう無くなってしまったなどと考えることは苦痛である。ぼくたちはそれに耐えることができないので、過去を存在するものとして考える。存在するものは存在の場が必要で、素朴にそれを空間的イメージの中で捉え、「過ぎ去った」時間の所在を、現在の「前」にあるものとして想定するのである。そうして、川のような時間の流れがイメージされる。
 時間にまつわる速さのイメージからも、「時間の流れの概念、記憶の置き場所説」がよく説明できる気がする。よく時間が流れるのが速い遅いと言う。例えば、「年齢を重ねるごとに1年が過ぎるのが速くなっていく」と。これは、今まで生きてきた時間との相対的な比較によって、眼前の1年の長さを感じるからではないだろうか。つまり、これまで過ごしてきた時間から得た膨大な記憶量と、ここ1年の記憶として残るものとの比較である。5歳の時は(1年)=(人生の5分の1)だが、30歳になれば(1年)=(人生の30分の1)となる。だから、年齢をとるごとに相対的な1年の長さが減り、時が過ぎるのが早く感じるのである。
 また、充実して過ごした時は、過ぎるのは速いが振り返ると長く感じる。退屈で退屈で仕方がない時は、過ぎるのはゆっくりだが振り返ると一瞬で無きがごとしという場合もある。このことからも、時間の流れのイメージは、記憶しておきたいものの多少によって左右されていることがわかる。
 ああ、悲しいな。楽しい時間ほど速く過ぎていき、思い出ばかりがのしかかる。




Previous Index Next