顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第10回・永遠の片思い


 思い思われ振り振られ、人は誰かに思いを寄せてはその思いが満たされたり、満たされなかったりを繰り返して生きている。愛する人から大切に思われることなく離れて暮らすことはとてもつらいことだ。(愛別離苦:仏教で言う四苦八苦のひとつ)
 だが、自分が恋焦がれる相手にその思いを受け入れてもらって思いが一時的に満たされたと感じたとしても次に待っているのは、自分が相手を思うほどには相手は自分のことを思ってはいないのではないかという疑念である。相手の思いを正確に測り知るすべなどないからその疑念は晴れることがなく、そのために人は常に相手に対して「自分のことが好きかどうか」を証明するための行為を目に見える形で要求してしまう。

 しかし、二人がちょうど同じくらい愛し合っているという状況などありえない。どちらか一方が必ずどちらか一方よりも相手に対する愛が深いのが普通だ。(人は相手より愛されたい自己中心的な存在なのだ。)深く愛している方は、愛の足りない方に対して必ず不満を抱く。「もっと自分を愛して欲しい。」その不満と哀しさは、まったく相手にされなかったときと同じかより一層深刻なものである。言いかえるならば、その瞬間彼(彼女)は自分の相手に対して、まさに「片思いの苦しみ」を抱いているのである。恋人同士が両思いであるなんて幻想だ。すべての恋愛は上のような意味において片思いである。片思いこそが恋愛という現象の本来の姿なのだ。(このことは岡本太郎から教わった。)
 もちろん恋人同士の場合、愛の深さは拮抗しているので、容易に片思い主体が変わり得るとも言える。ちょっとしたことで相手への好き度が上がれば、今夜は自分が片思いかもしれない(昨日までは十分愛されていたと思っていたのに、今日はそれでは足りない)。
 だが、思いの深さが拮抗している二人は稀な存在で、世の中の恋人はたいがいどちらかが片思いをしているような気がする。片思いだから、愛が深い方が振り向かせようと努力するのだし、その努力によって関係が維持されたりするのではないか。片思い主体は努力しつづけて疲れきってしまった場合に限り、愛することを「我慢」せざるをえなくなり二人の関係が終わるのである。(嫌いになるのではない)しかし、片思い主体は、相手がたまにごほうびをくれる(好かれているほうは、常に好かれているがゆえ、ごほうびを与える余裕がある)ならば、そういう苦労は厭わずむしろ楽しいと感じる。
 一方、人は安定を求めるので、日替わりで二人の力関係が変る「両思い」=「不安定関係」には安住できない。彼らは駆け引きに始終するだろう。それが、恋愛がゲームになる契機なのである。両思いは安息の得られない消耗戦だ。最終的には傷つけ合うだろう。

 片思い状態の方が長続きすると思うし、逆に言えば長続きする思いこそは片思い状態なのではないか。片思いは永遠に続いていく。誰かの愛するAさんやBさんや・・・(以下省略)はそれぞれ片思いだったからこそ、今でもその人の心に存在しているのであろう。



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