顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第4回・思い出トリップ


 ぼくはどちらかと言えば後向きな人間で、過去を振り返ってばかりいる。ぼくの行動だけを見ている人からすれば、おそらく前向きなように見えるだろうから意外なことかもしれない。でも実際には、ぼくの行動エネルギーの源泉は「いまここで、こんなことしちゃったりなんかしたら、たぶんおそらく絶対にきっとすごくいい思い出になるんやろうなあ・・・」ということであり、むしろ思い出を作るために生きていると言ってもよい。(どこが「いまをいきる」やねんという声が聞こえてくる・・・。)ちなみに、その思い出は、ぼくの場合、楽しい思い出に限るわけではない。悲しい思い出になるだろうという予感がしても、突進してしまうことが多々ある。その思い出を肴に友と幾夜酒が飲めるかと思えば、安いものという感覚があるのだ。

 思い出作り人生の成果のひとつに、ダンボール三箱の通称「メモリアル・ボックス」がある。中には小学生の頃の作文から、捨てられない写真や、好きだった人の描いた絵(フェチなのである)、恥ずかしさの塊の同人誌(!)等々、様々なものが詰められている。たまに取り出しては数時間トリップして忘我状態を楽しむのが趣味でもある。ひとたび作った思い出は、何度も何度も反芻して、しゃぶりつくす性質なのである。
 しかし、トリップ後はたいてい鬱状態に陥ってしまう。声は1オクターブ低くなり、顔から表情は消え、外に出歩くのが億劫になり、メシも食えない。「抜け殻」である。なぜそんな風になってしまうのかといえば、「思い出」の持つある性質(私見)をトリップの最後に感じてしまうからだと思う。それは何か。

 思い出には、楽しい思い出と、悲しい思い出がある。(腹立つ思い出とかは不思議と忘れており、あまり残っていない。)この二つの思い出は、ともに思い出トリップの重要な要素であるのだが、そこには決定的な違いがある。楽しい思い出はまさに「思い出」であり、昔に経験した楽しさは次第に色あせていく。「楽しかったなぁ・・・」とほっこりすることはあってもあの熱狂がそのまま蘇えるわけではない。
 しかし一方悲しい思い出は、ぼくにとって未だ「思い出」ではなく、現実の悲しみとして眼前に存在している。「優しくしてくれた人を裏切った」「期待に応えられなかった」「思いが伝わらなかった」「人を傷つけた」「自分の醜さを思い知った」「力が及ばなかった」「別れた」「死んだ」・・・。その多くは、昔のままの感情が今もわいてくる。

 思い出トリップは、あまりやりすぎると、結局は悲しい思い出ばかりがリアルで、せつなくなりすぎてしまう。「喜びは既に無く、悲しみは常に有る。」しかし人はそうと知りながらも、思い出をすべて投げ捨ててその日暮しをしたり、今日を犠牲にして明日のために生きる目標達成人生のみに生きたりはできない、とぼくは思う。




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