顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第3回・自由への扉


 ぼくたちは自由を求めている。誰かから何かを強制されることはとても嫌だ。「操られている」というだけで、その行動の結果がどんなことであっても嫌になる。だからサブリミナル・テクニックのように、無意識に働きかけて人に影響を与えようとするような広告は非難されるし、催眠術師たちには底知れぬ恐ろしさを感じる。酒を飲んで記憶がなくなった朝は自分が昨晩どえらいことをしでかしていないかどうか、とても不安だ。(逆に酒を言い訳に、忘れたふりをするときもある。)ともかく、意識できない何かによって、自分が動かされているのは嫌なのである。

 しかし、自分が意識せずにしている行動があることも事実だ。まず、心臓の脈動や、ふだんの呼吸、体温の調節、物を食べたときの消化等々、肉体のほとんどが自動装置である。そこには意識の介入する余地はない。呼吸ぐらいなら意識的に吸ったり吐いたりできるが、心臓を止めたり、体温を下げたりできるのはヨガ行者ぐらいのものである。
 意識的にしている行動においても、無意識の部分は潜んでいる。自転車に乗ったり、ゴルフボールを打ったりすることはできるが、どんな筋肉をどう使うということまで意識している人は、あまりいないだろう。
 肉体的なものだけではない。頭の中の出来事ですら、意識できない動きが多々ある。例えば、だじゃれは突然頭に浮かぶことが多いが(多くないか")、だじゃれを思いつくには、ある言葉に音韻的に似ている言葉を無数の言葉の中から検索するという複雑なことをしなくてはいけないはずである。人間はそれを自動的につねにやっているのである。なぜそんなことをしているかはわからない。それがあるから詩で韻をふんだりすることもできるのだが。また、だじゃれだけでなく、その他多くのアイデア・思考は、意識的に生み出したというよりはどこからともなく降ってくるようにみえる。

 このように、多くの人間の行動が自動的に行われており、そこにはいわゆる「自由」の影も形もない。その点においてぼくたちは、まるでアイボのような存在だ。では、自由があるとすれば、いったいどこに潜んでいるのだろうか。
 それは「行動の意図」である、という人もいる。何かをしようという「意図」は、外部の世界から影響を受けずに、自然に精神の内部だけで発生するものである、と。でも、それも怪しいのではないかとも思う。結構人間は、自動的した行動に「後づけ」で理由を考え、「もともとそういう意図だった」と語る傾向がある。たまたま投げたものが、何かのちょうど真中に当たったら、ほとんどの人は「狙った」と言うだろう。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という言葉もあるように、意図から行動が始まるのではなく、自動的に行った行動を「意図的にやった」と錯覚することもあるだろう。ああ。
 予定調和の世界から逃れたい思いは満たされず、ぼくは今日も空しく自由を求めている。




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