復興 新歓迎コンパ


2002年4月26日に行われた、新入生歓迎コンパについての顛末記です。


復興「天寅」新歓コンパ顛末記

2002年8月23日 平成2年入学 曽和利光

かつて新歓コンパと言えば、叡山電鉄の元田中駅側、料亭「天寅」にて行われるのが常でした。

そこはかの湯川秀樹博士もコンパを行ったという(写真がある)由緒正しい場所で、Pでも昔からそこで新歓が行われていました。
天寅は基本広い座敷であるために、普通の居酒屋でのコンパよりもより大勢の人数を一気に収容できる一体感ある場所だったので、新歓コンパのような呑み会にはよく使われる店でした(ちなみに私は内藤さんと二人で昼間にすき焼きを喰ったことあり)。
ところが、最近ではあまり天寅を使わなくなったと聞きました。それはそれで意図があると思うので全く問題はありません(本当に)。

しかし、P地下.comの基本思想(うそ・・・今作りました)「共通の思い出が人を結びつける」から、できれば伝統的な場所を使うことで、これまで何代にも渡って天寅でコンパをしてきた諸先輩方と時空を越えてつながることができるのではないかと考えました。
そこで、たまたま知っていた新歓主催者にPのとあるOBたちがこそっと推薦してみたのです。
(というか、ほんとは酒の場とかそういう場面で語っただけかもしれません)

その後、彼らが私たちの考えを検討してくれた結果、とりあえず2002年度新歓コンパは天寅が復活することになりました。

それがどういう結果になったかは・・・・・・えらい状況になってもうたようです(笑)・・・まあ、人生にはいろいろあります。
ただ、刺激的な一夜であったことは確かにみえました。現自治会長の東畑くんの筆による檄文(?)等を読んで想像してみてください。

来年以降もさらによい新歓コンパにし、P新入生に「入ってよかった」と思ってもらえるよう上回生諸君は是非がんばってくさい。
OBもできるだけ邪魔にならぬよう(重要)、影ながら応援したいと思います。



新歓2002レポート

平成13年入学 東畑開人

 今年の新歓コンパは例年のそれとは様子が違った。空気が違った。意味合いが違った。今年の新歓は教育学部ルネサンスの第2章だったのだ。

 ここ数年、教育学部ではこの学部の特色であった縦のつながりが失われていた。そこには様々な理由があったのだろうけれど、確かに失われていた。去年の新歓コンパは、僕ら1回生のほかは新歓委員長の藤木さん、そして2回生がちらほらといるだけだった。そしてその前の年も同様だったらしい。しかし今年は違った、会場には1回生が59人、2回生が9人、3回生が3人、そしてその上も院生からもっと上の人まで計6人、さらにOBが3人となり、総勢で80人という超豪勢な新歓コンパとなった。

 4月26日の午後5時、僕が集合時間より早めに学部にやってくると、そこにはコンパを心待ちにしている1回生の男が数人既にやってきていた。まだ外は明るくて、風は心地よかった。そこに藤木さんがやってきて、そしてOBの内藤さん、曽和さんがやってきた。去年の学部祭以来の再会を懐かしむ僕らを尻目に、1回生は続々と集合してきて、6時を過ぎる頃には、学部のロビーはピチピチした一回生たちでごったがえしていた。熱気が高まってきた。今年の新歓は何かが起こる、僕はそう確信した。

 今年のコンパ会場には天寅が選ばれた。天寅は教育学部御用達の店だったらしい。
あるOBは言った。「天寅じゃなきゃ新歓は始まらないさ、なぜならそこは常に学部の歴史の表舞台だったからだ。」ここ数年、天寅は忘れ去られていた。そして今年復活した。ここにもまた学部の未来が垣間見えた。
 天寅の2階のテーブルには、新入生が6人に対し、2人の上回生がついていた。無頓着な顔をした新入生に対して、すこし照れたような上回生の顔が印象的だった。僕らもどう後輩に接したらいいのか戸惑っていたのだ。

 「さぁー、いくぞー!!」教育学部伝統の乾杯でコンパは始まった。
 昂ぶっていた僕のテンションとは裏腹に、新入生達の反応は冷たかった。どう反応していいのかわからない新入生達はひたすら押し黙り、藤木さんと僕のおおげさな乾杯の声が虚しくこだましていた。
 新入生は既にかなり互いに親しくなっており、彼ら同士の会話は弾むが、そこに上回生は入りにくそうにしていたし、新入生も年寄りをどう扱っていのかをわからずにいた。
 もっとすきっと上手くいくと思っていたから、僕は少し不安になった。テーブルごとに気まずさの塊がドデンと存在していた。

 しかし、しかしだ、すき焼きの肉を焼く音が聞こえて、いい匂いが漂い始めると、会場は次第に温まってきた。色々なところで歓談の声が聞こえ始め、一回生のコンパ委員がイッキをふる声が響き渡った。
 それからはあっという間だった。
 ぎこちなかった新入生と上回生の会話も、油をさしたようにスムーズに回転しだし、アルコールの魔力がそれをさらに後押しした。テーブル、テーブルを個々に包み込んでいた親しみの膜が、二つのテーブルを繋ぎ、そして会場全体を一つにした。だれもが打ち解けて、くだらない話に興じていた。親しみを示し、しかしそこには互いへの敬意があった。

 ある一回生は叫んでいた。
「俺、マジ教育学部はいってよかったすよ、いや本当によかったっすよ。」
 そしてある上回生が言った「入学おめでとう、待ってたよ。」
 成功した。僕はそこで思った。去年と違った新歓コンパがそこにあったからだ。新入生同士の輪の中に、自然に上回生が混ざっていた。今年の一回生は幸せだ、そう僕は思った。入学した時に、それを待っていてくれた先輩がいる。この事実を実感できた今年の一回生は実に幸せだと思ったのだ。

 僕の記憶はそこで一気に飛んでしまう。気付いたら、2次会の会場、バー「シシリー」で一回生と喋っていた。そしてその後は、新歓委員長としての職責も忘れて、純粋にその場を楽しんだ。楽しかった。そう自信を持っていえる一日になった事に、僕は今でも満足している。

 教育学部の一年は始まったばかりである。この後、新歓合宿もあるし、そしてNFでは学部祭もある。そして、その流れが来年も再来年も連なっていく。倒れ出したドミノはもう止まらない。去年の学部祭で一つ目のドミノが倒れ、そして新歓コンパで二つ目が倒れた。あとは加速にまかせて、教育学部はまた一つになってゆくのだと思う。
 上も下も楽しく交じり合える学部。そんな教育学部が復活する。それを感じさせるいい新歓コンパだった、僕はそう自負している。

 最後にある2回生の言葉を紹介して、結びとしよう。

「ある1回生と喋ってたんだ、おそろしく髭の濃い1回生だ。そいつは熱っぽく自分の将来について語ってたよ。世界一の学校を作るってね。俺はぬるくなったビールを喉に流し込みながら、そいつの瞳を覗き込んだんだ。そこに何があったと思う。そいつのひどく澄んだ美しい瞳に映った、濁った目をした土色の顔をした俺さ。そして思い出したんだ。俺にもこんな時があったって。そして俺の夢も同時に思い出したよ。俺は通訳になりたかったんだ。そうさ、それから俺は木曜日、1コマめのドイツ語に出席するようになったのさ。な、俺はあいつから学んだんだ。そして、それこそが新歓なんだ。」


P地下ルネッサンス

平成元年入学卒業経験無し 田村雅也

現在、教育学部コンパ委員は縦のつながりを失っています。
新一回生のコンパ委員は、一回生のために、一回生が自らコンパを企画し、盛り上げて行くというコンセプトの元に立候補し、結束しているものと思われます。
そんな彼らが先輩からの干渉を受け付けないのは当然でしょう。

昔は違いました。一回生がコンパをやる場所もノウハウも知らないのは当然なので、上回生が引き継ぎを行い、いつでも上回生に頼る事ができるようになっていました。
そして新歓コンパ及び新歓合宿はその名の通り、上回生による新歓行事の一貫でした。
新歓コンパは二回生の新歓実行委員会が主に運営し、各テーブルに1人は上回生が入って、テーブルのノリをコントロールするようになっていました。
コンパ委員は主に盛り上げや司会、二次会以降の仕切り、つぶれた一回生のお世話など、裏方中心でした。
従って、女性の上回生も多く参加しており、一回生の春先の話題には「〜先輩は美人だ。」というような話も多かったものです。

それに対し、新歓合宿は完全にコンパ委員のみによる運営であり、僅か数名のコンパ委員にとってはとても負担の大きな企画でした。
実際僕も大変苦労しましたし、計画の青写真は完全に二回生(中島さん、東陰地さん)の去年の記録、会計ノートなどにたよって描かれました。
「去年は最後にみんなが、中島君ありがとうって言ってくれて、感動したよ。」という中島さん(現ブラウン大学助教授)のお言葉を信じて頑張りましたが、結構みんな冷たくって(酔いつぶれ、二日酔いのせい?)救急車まで呼んで苦労した割りにさびしかったのを覚えています。
これを一回生単独で実行するのは困難です。翌日中島さんが牛丼をおごってくれながら、「みんな本当は感謝してくれてるって。」とフォローしてくれなきゃ、完全にすねてました。

藤木もいってましたが、コンパ委員は報われません。盛り上げるのと楽しむのとは一見、素人さんには同じにみえるでしょうが、高次元な領域で全く別物です。実は非常に疲れます。従って、藤木君がもっと先輩に来て欲しかった、と言う本音を語る時、僕は彼がどんなコンパ委員だったかが手に取るようにわかります。

代々、コンパ委員は、藤木や東畑のような、皆にサービスするばかりで自分は消耗してしまうタイプが多いです。彼らは甘えられる先輩を必要としますし、先輩によるケア及びスーパーヴァイズなしではコンパ委員はなりたちません。僕もそうでしたし、今、内藤さんや曽和との縦の関係が強いのもそのためです。(それぞれ、横の関係ももちろん強いですよ。)

いつ、どんな理由で学年間の断絶が始まったのか、いまさらどうでもいいことですが、このように、二回生が一回生に引継ぎをし、バックアップし、フォローする、そして新歓コンパ及び、新歓合宿でのコンパ委員の仕事を説明するということがあれば、これらの場に上回生が来る事、上回生が主に運営してくれる事、助けてくれること、というのは当然の成り行きのはずです。
僕は合宿で、ほぼ自分だけの判断で、急性アル中を起こした一回生に対し救急車を呼びました。それは、二回生の中島さんが「下級生には干渉しない」というポリシーだったので、朝方まで来てくれなかったためです。その後、ぼくが3か4回生の時には、川に落ちて頭をケガした一回生を、僕が車で救急病院に運んだこともあります。また、急性アル中を出した原因が、コンパ委員の一人が一気させまくったのが原因だったということもあり、その後毎年僕はそういうことのないように監視していました。新歓合宿については、絶対に先輩の参加が必要だと僕は考えています。不測の事態が起こらない限り必要ないかもしれませんが、突然何が起こるかわかりませんから。彼らが安全に、安心して飲めるようにするのが先輩の役目です。

みんなが先輩を歓迎するわけではありません。僕や東畑や藤木みたいなのは1割くらいでしょう。残り3割は先輩を煙たがり、6割はどっちでもいいってとこでしょう。
しかし、その割合は、上の出来が悪ければ、どんどん悪い方向に傾きます。上回生はそこに気をつけなければいけません。

今回、学部祭、新歓コンパ、新歓合宿という、3本柱が傾いているということで、OBによる緊急介入がなされました。しかし、これは特例です。ただでさえ突然の先輩の介入に驚く新入生に対し、得体のしれないOBは邪魔でしかないでしょう。実際、OBにとってはたった1日の非日常であり、時間的連続性が欠けていることによるメリット、デメリットがあります。

ですから、藤木、東畑に後は任せるべきだと僕は思います。でないと「”先輩”が来る」という言葉を「”OB”まで来るのか」というニュアンスで感じられ、一回生と先輩との関係改善につながりません。東畑や藤木には我々の考え、想いは伝えました。後は彼らの教育への愛と努力に期待するのみです。
残念ながら一回生は自主独立で行くというならそれでいいでしょう。そのかわり、来年一回生に直接今回の反省をふまえて働きかければいいのです。

藤木、東畑らへのフォローは我々の仕事です。
藤木達は、新入生のコンパ委員を指導し、フォローしてやって下さい。そして、新歓合宿は必ず上級生が手を貸してやって、安全を確保して下さい。さらに、新歓コンパには、女性の先輩を多数参加させて下さい、女性の多い学部であり、女性の新入生には女性の先輩が必要です。ここは東畑達の人徳が問われるところでもありますよ。

以上、我々OBからのメッセージです。古き良き教育を取り戻す為に尽力される事を期待しております。
我々は、新歓行事にまで参加するべきとは考えてません。今回は特例です。「これが新歓コンパだ、これがコンパ委員だったんだ。」ということを、おせっかいながらも教えたかったのです。新歓合宿もわからないことがあれば教えます。どうしてもということなら車も出しますし、協力もします。しかし、それは一回生の反感を買うかもしれません。
始めに一回生ありき、です。
また1回生にとっては、始めに先輩ありき、です。4年間の大学生活で、クラスコンパは何度もやります。新歓コンパは一回だけです。先輩と飲めるチャンスはもうありません。先輩に教えてもらえることは一杯あります。来年は自分が先輩です。自分が失敗したこと、学んだこと、次の世代に伝えたいと思うのが自然ですし、そうするのが義務です。借りたものは返す。先輩に教わった物は後輩に伝える。そうやって出来あがったものが伝統であり、新歓コンパや新歓合宿であり、そのノウハウであり、ぼくらが今こうして守ろうとしているものです。

あっというまに4年が過ぎ、そして内藤さんが声をかけて飲み会をすれば、上下6回生に渡って楽しげな連中が集まります。男性も女性もです。これが教育だと思っていました。何もかもが理想どうりというわけには行きませんが、少しでも理想に近い方が楽しいじゃないですか。みんな、学部愛のもとに一つになってください。


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